ジェシカ・チバ
翻訳家というものは、あまり言及もされず、気づかれもせず、称賛もされず、もし称賛されたとしても、それは目立たないでいることに成功した時だけである(*1)。 それゆえ、特定の翻訳家の仕事を称える展示は、この伝統を打破するものとして歓迎される。シェイクスピアの全戯曲を完訳した初の日本人女性、日本人ではわずか3人目の完訳者である松岡和子以上に称賛に値する者が、誰かいるだろうか。小田島雄志が当時の口語による日本語訳をスタンダードに打ち立てて、広く一般大衆にシェイクスピアを広め、彼の翻訳が、1970年代から1990年代まで、日本のシェイクスピア劇の舞台を独占したのは、不思議ではない(*2)。 しかし小田島の時代に現代的であったものは、もはやそうとは言えず、松岡の翻訳は、我々の時代のスタンダードなテキストとなり、現世代のためにシェイクスピアをアップデートして、容易に理解でき上演できる翻訳を生み出した(*3)。 他の多くの翻訳家とは異なり、いくつもの賞を受賞し、多くの新聞や雑誌、テレビのインタビューや、その翻訳についての学術論文が書かれた松岡の存在が、気づかれぬままとはなっていないことは、意外ではない。松岡自身も翻訳家として自らの翻訳について語る本、記事やコラムを出版することによって、この可視化に貢献している。彼女が成し遂げたことは、それ自体が雄弁であり、語られるに値する。
松岡のシェイクスピア翻訳について考えるとき、私は愛について思いを馳せる。全てのシェイクスピア翻訳が愛ゆえの骨折りであることは疑いがないが、既にその作品が翻訳されている国においては、新訳が望ましいかもしれないが、厳密には必要とは言えない。さらに、シェイクスピアの翻訳を請け負う翻訳家は、その作品を知っているだけに留まらず、それらを愛していなければならない。松岡のシェイクスピア愛は、俳優や演出家との共同作業への献身や、自らの翻訳についての言葉において明らかである。彼女の「訳者あとがき」は、シェイクスピアの芸術性への尊敬で溢れている。シェイクスピアの言葉が松岡に困難を与えれば与えるほど、彼女の驚きや感謝が大きくなるようである。例えば、『から騒ぎ』や『ウィンザーの陽気な女房たち』のあとがきでは、松岡は口癖やマラプロピズム(言葉の滑稽な誤用)を訳す際の難しさと楽しさについて述べている(*4)。 ダーク・ディラバスティタが指摘するように、マラプロピズムは「二つの概念的意味だけではなく、二つのスタイルに対峙するのであって、その結果、言語は、その社会言語学的階層化だけではなく、形式と概念的意味の階層的属性という観点から、『触知できるもの』となる」(*5)。 時代錯誤的にマラプロピズムとして言及されるこれらの言葉の誤用は、面白いだけではなく、複雑である。寧ろ、多面的な意味を示すことでユーモアを作り出しているのである。シェイクスピアは、喜劇的な目的のためだけではなく、登場人物の無知や、実際よりも知的だと見せるための努力、臆病さや、我々がフロイト的失言と現代で呼ぶところのものなども表現できる言葉の誤用に、明らかに楽しみを見出している。しかし、語呂合わせやマラプロピズムのような複雑な言葉遊びに直面した翻訳家は難しい選択を迫られる。意味を活かすことによってジョークを台無しにするか、可能であれば、ある言語の母語話者にとって推測可能な類似した意味のネットワークを作り出す代替表現を見つけるか二者一択であるからだ。この難しさを松岡が喜びとともに語ることは、その仕事を、乗り越えるべき困難としてではなく、楽しい挑戦として捉えて、心から楽しんでいることの証左である。かくして、『から騒ぎ』翻訳の「訳者あとがき」で、松岡は、自分が日本語のマラプロピズムのノートを持ち歩いていて、生活する中の会話で耳にした言い間違いを聞くたびに、そこに書き加えていることを、いかにも楽しそうに書いているのである(*6)。 松岡のそのようなジョークの言い換えの魅力は、間違いなくその発見を楽しむ精神の中に宿っている。シェイクスピアのジョークを翻訳しようとするのではなく、松岡は彼女自身の中に、シェイクスピアが執筆時に経験したであろう言葉の楽しさを見出しているように思える。
しかし、松岡の翻訳へのアプローチ全体の特徴が気楽さだなどとほのめかすとすれば、不当なことになる。彼女がシェイクスピア劇翻訳の経験について語った何かを読んだことがある者ならば、これは単なる翻訳の仕事ではなく、彼女の人生の一部であることを見て取るだろう。プロスペローについて、自身の父親が戦後ソ連で抑留されたことを思い起こさせると語るときなど、松岡のシェイクスピアとの結びつきが私的なレベルの経験にまで広がっていることが分かる(*7)。 そして、最も小さな言葉の選択への反応からも、彼女のシェイクスピアに対する情緒豊かな関係が伺われる。『マクベス』の「訳者あとがき」で、マクベスが医者に「患者の具合はどうだ?」(V.3.37)と自分の妻について尋ねるところで、涙が滲んだという。「なぜマクベスは、『妻の様子はどうだ?』、と言えなかったのか」と(*8)。 松岡の翻訳自体が、一人の愛する読者の目を介したシェイクスピアのことを物語っている。だが、彼女の翻訳への情熱的なのめり込みを示すこのような小さな証拠はさらに、松岡が日本の読者に、彼女の心を内包するシェイクスピアの全作品を与えてくれたのだということを表しているのではないか。
もちろん、松岡訳を効果的にしているのは彼女がその翻訳にもたらす個人的な特質だけではない。よい翻訳とは解釈でもあるので、翻訳を意味する日本語の「訳」という語が、「やく」とも、「理由」という意味での「わけ」とも読めるのは、道理にかなっている。スーザン・バスネットが指摘するように、「翻訳者が提供するのは、[...] 彼または彼女のテキストの読みであり、[...] 上演のための翻訳の場合、その作品を舞台化するプロセスにおける他者との共同作業による読み」なのである(*9)。 松岡はその翻訳、それに添えられた詳細な脚注、シェイクスピアに関する洞察力に満ちた批評等を通して、日本のシェイクスピア劇の貴重な解釈者である。松岡の読みで際立っているのは、なぜ物事がそうなのかという「訳」(わけ)の探究心である。それゆえ、例えば、デズデモーナ役を演じた蒼井優からの疑問―なぜデズデモーナはオセローの台詞(「元気ですよ、奥様。[...] お前はどうだ、デズデモーナ?」)に対して「元気ですよ、旦那さま」(Othello, III.4.33-5)と作品の中で唯一「旦那さま」という語を使って答えたのか―という疑問に触発されて考えたという例を挙げる(*10)。 蒼井優と共同で辿り着いた松岡の答えは、オセローの極端に大仰な「奥様」という呼びかけに対して、シェイクスピアは、デズデモーナに戯れた返事をさせているというものだった(オセローは妻へ通常、「私の愛する人」とか、「私の可愛い人」あるいは「いい子(原意はヒヨコ)」と呼びかける)(*11)。 他の例では、なぜオフィーリアがハムレットからの「高価な贈り物」(「贈り手の真心」がなくなり「みすぼらしく」なった品)を返すときに、彼女らしからず、自分のことを「品位を尊ぶ者」と呼ぶのか(III. 1. 99-100)と疑問を投げかける(*12)。 松岡の推測は、オフィーリアがハムレットからもらった贈り物を返すとき、父親から教えられた言葉を反復しているのではないかということである。ハムレットの突然の「ははあ、お前は貞淑か?」(III. 1. 101)という冷淡な返答は、ハムレットがオフィーリアの言葉の選択から彼女の行動の背後には父親がいると気付いたからではないか、というものである。この推論をサポートするために、松岡は2幕 1場のレイナルドとポローニアスの会話において、ポローニアスが人に振る舞い方や言葉遣いについて細かく指示をする人物として描かれているとする。エズラ・パウンドは、「翻訳ほど徹底した文学批評はない」と述べたと言われているが、シェイクスピアの翻訳家は全ての言葉、全ての前置詞の選択をしなくてはならないのだから、研究者や役者の大部分よりもテキストをよく知っていると主張しても過言ではないだろう(*13)。 翻訳には喪失が不可避というのはよく繰り返されるクリシェであるが、松岡は、翻訳が研究や演技の選択に実質的な影響を与える可能性があること、意味や解釈の探求であることを証明している。
松岡の翻訳は、翻訳を通してシェイクスピア劇に出会うことが多いであろう次世代の研究者たちにとって、それらをいっそう手に取りやすくしただけではなく、すでに研究者として確立した者たちにも、精密な読解のための新たな材料を与えることによって、日本の研究者のコミュニティを豊かにしている。彼女の翻訳と脚注は、原文の台詞を翻訳者が選択した解釈を参考に詳細に読み解いていく日本の研究者によって、日常的に用いられている(*14)。 このことは、研究者が原文テキストの脚注を参考にすることと似ているが、脚注が純粋な解説であるのに比べ―翻訳者がこのような脚注を提供することもあるが―翻訳されたテクストは、それ自体が解釈を必要とし、批評家が考え得る意味を拡大する重要な作品なのである。翻訳作品と共にシェイクスピアの作品を分析することは、批評家たちに翻訳家のテクストの読みの一側面を垣間見せることになる。翻訳を解釈に関連させる現代の日本の批評が、小田島や逍遙のような過去の偉大な翻訳家と並んで、松岡の選択に言及しなければ、全く欠陥を抱えたものとなるだろう。その理由は、偉大な先人たちのように、全作品の翻訳を成し遂げたことで、有名なものばかりではなく、どの芝居を研究する学者にもリソースを提供したからということだけにとどまらないのである。
しかし、松岡の翻訳が最も大きなインパクトを持つのは上演において―特に演出家の故・蜷川幸雄との長年のコラボレーションにおいて―である。小田島が出口典雄と共同作業を行なったように、日本では演出家のそばで翻訳家が仕事をするという確立された伝統がある。松岡の翻訳の真に協働的な側面は、蜷川作品の稽古場への継続的な立ち会いから来ている。翻訳家は、完成されたはずの原稿に、稽古場でのフィードバックに基づいて変更を加えるかもしれない。しかし、松岡の最終翻訳の大部分は、俳優や演出家との対話によって発見されたものであることが、その著作から明らかである。松岡が『深読みシェイクスピア』の裏表紙の宣伝文で明瞭に語るように、「私(松岡)の翻訳は稽古場で完成する」(*15)。 翻訳家は、彼らが翻訳する言語の話し手のみに利益をもたらしてきたと思うことは自然である。しかし、この演劇的共同作業は、松岡の名声を日本国外でも保証することになった。日本のシェイクスピア劇の上演に関してイギリスの批評家たちは、特に蜷川作品のことになると、「主に、おそらくは専ら、その美的側面にのみ興味関心を寄せてきた」(*16)。 しかし、蜷川のシェイクスピア作品やりゅーとぴあ・シェイクスピアシリーズなどの日本の著名なシェイクスピア劇の上演を楽しんできた世界の観客たちは、自身が考えている以上に松岡の翻訳に多くを負っている。特定のまとまった翻訳がなければシェイクスピア作品の上演ができないというわけではないが、南隆太が指摘するように、「翻訳のスタイルが演技のスタイルを決定づける」のである(*17)。 松岡は、その翻訳によって、シェイクスピア作品が舞台で生命を吹き込まれることになる特別な仲介者であり、その人によって、特定の解釈が可能になる翻訳者なのである。
翻訳研究において、翻訳家は作家のように創造者であるか否かは、議論のトピックであり、明確な答えがあるテーマではない(*18)。 松岡のマラプロピズムが示すように、ある程度は翻訳家も新しい作品を生み出しはするが、翻訳は結局のところ翻訳と認識される原作の変更に留まっていなければならないのである。しかし、シェイクスピアと松岡の間の著者性と創造性の問いに、明確な解答がなくとも、松岡が芸術家であることには疑いはない。私が研究する「翻訳不可能性」についての私的な会話の中で、松岡は、全ての翻訳は不可能から始まると述べた。キャンバスに留める事が不可能であると知りながらも、絶景を前にして筆を執る芸術家のように、松岡にとっての翻訳も、シェイクスピア作品を読んだり観たりした時に感じる美しさを伝えようとする心意気に突き動かされている。松岡の翻訳書のカバーに、彼女の名前が目立つ形で載せられているのは、版元である筑摩書房の名誉である。翻訳や翻訳家にあまり焦点を当てないようにする最近の傾向とは異なり、筑摩書房から出版されるシェイクスピア全集は松岡の名に背表紙とカバーで堂々たる場所を与えている(*19)。 これは松岡のシェイクスピアなのであり、この偉大な業績により彼女が末長く記憶されることを祈りたい。
注:引用文献リストは原文下部を参照
1 Lawrence Venuti, "The Translator’s Invisibility: A History of Translation, 2nd edn (Abingdon: Routledge, 2008), p. 5–7.
2 Akiko Sano, ‘Shakespeare Translation in Japan: 1868–1998’, Ilha do Desterro, 36 (1999), 337–369 (p. 340).
3 小田島雄志の子息で自身も翻訳家である小田島恒志は、言葉の使用について世代間の差異を指摘している。「上演翻訳におけるジェンダー意識」(『演劇研究センター紀要I』所収、2003 年、375-382(p.378))
4 Kazuko Matsuoka (trans.), The Merry Wives of Windsor (Tokyo: Chikuma, 2001), p. 197; Kazuko Matsuoka (trans.), Much Ado About Nothing (Tokyo: Chikuma, 2008), p. 187.
5 Dirk Delabastita, There’s a Double tongue: An Investigation into the Translation of Shakespeare’s Wordplay, with Special Reference to Hamlet (Amsterdam: BRILL, 2021), pp. 101–2.
6 Matsuoka (trans.), Much Ado, p. 185.
7 Kazuko Matsuoka (trans.), The Tempest (Tokyo: Chikuma, 2000), p. 168.
8 William Shakespeare, Macbeth, ed. by Sandra Clark and Pamela Mason, The Arden Shakespeare Third Series (London: Bloomsbury, 2015) Kazuko Matsuoka (trans.), Macbeth (Tokyo: Chikuma, 1996), p. 186.
9 Susan Bassnett, Translation (Abingdon and New York: Routledge, 2013), p. 169.
10 William Shakespeare, Othello, ed. by E. A. J. Honigmann, The Arden Shakespeare Third Series (London: Thomas Nelson and Sons, 1997).
11 Kazuko Matsuoka, Fukayomi Shakespeare [Deep Reading Shakespeare] (Tokyo: Shinchosha, 2011), p. 160.
12 William Shakespeare, Hamlet, ed. by Ann Thompson and Neil Taylor, The Arden Shakespeare Third Series revised edn (London: Bloomsbury, 2016).
13 Piotr Kuhiwczak, ‘The Troubles Identity of Literary Translation’, in Translation today: Trends and Perspectives, ed. by Gunilla Anderman and Margaret Rogers (2003), p. 116.
14 See, for example, Yukio Kato, ‘Caesarean Section and Death of “Woman”: Was the Riddle in Macbeth Solved?’, Studies in Language and Literature: Literature (Tsukuba University), 35 (1999), 1–20, and Manabu Tsuruta, ‘Rhetorical ‘Action’ in Early Modern English Writing and Shakespearean Drama’, The Bulletin of Central Research Institute Fukuoka University Series A: Humanities, 16 (2017), 43–53.
15 Matsuoka, Fukayomi Shakespeare, back cover.
16 Tetsuo Kishi, ‘Japanese Shakespeare and English Reviewers’, in Shkapeseare and the Japanese Stage, ed. by Takashi Sasayama, J. R. Mulryne, and Margaret Shewring (Cambridge: Cambridge University Press, 1998), pp. 110–23 (p. 119).
17 Ryuta Minami, ‘Finding a Style for Presenting Shakespeare on the Japanese Stage’, Multicultural Shakespeare: Translation, Appropriation and Performance, 14 (2016), 29–42 (p. 32).
18 例えば、以下参照。Claudia Buffagni, Beatrice Garzelli and Serenella Zanotti (eds), The Translator as Author: Perspectives on Literary Translation (Berlin: Lit, 2011) and Hanne Jansen, ‘I’m a Translator and I’m Proud: How Literary Translators View Authors and Authorship’, Perspectives, 27 (2019), 675–688.
19 Cecilia Alvstad, ‘The Translation Pact’, Language and Literature, 23 (2014), 270–284 (p. 276).
ジェシカ・チバ
バーミンガム大学シェイクスピア研究所、レヴァーフルム・アーリー・キャリア・リサーチフェロー。ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校にて博士号取得。主著に‘Lost andFound in Translation: Hybridity in Kurosawa’s Ran’ Shakespeare Bulletin 、vol. 36、no. 4 所収、(2019)、‘“And Nothing Brings me All Things”:Shakespeare’s Philosophy of Nothing’、The Routledge Companion to Shakespeare and Philosophy 所収、C Bourne & E Caddick Bourne 編(2018)などがある。現在、Shakespeare の「存在(being)」への強い関心を存在論的観点から扱った自身初の研究書Shakespeare’s Ontology の出版を準備中。レヴァーフルム・トラストの助成を得て「シェイクスピアの翻訳不可能性」についてのプロジェクトが進行中。
日本語翻訳 石渕理恵子
早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助教。2020 年に東京女子大学にて博士号取得(人間文化科学)。専門分野は英国ルネサンス期文学・文化、特にシェイクスピア、女性作家の作品研究。
主論考に「『ユーレイニア』と『ヴォルポーネ』における「話す行為」ー異文化の出会いとジェンダーの観点からー」(『緑の信管と緑の庭園ー岩永弘人先生退職記念論集』所収、2020)、‘The Unmarried Characters in Mary Wroth’s Love’s Victory and Shakespeare’s As You Like It’ (2013)等がある。現在、早稲田大学、中央大学、東京女子大学にて非常勤講師を務める。