前沢浩子
シェイクスピア劇の日本語訳の歴史をたどると日本の近現代史が浮かび上がってくる。江戸文化と西洋文明の出会いは、大きさにおいて非対称な文明の衝突だった。その衝撃の中で、坪内逍遙はシェイクスピア劇の特徴である自由な異種混成に歌舞伎との共通性を見抜き、「国劇の向上に資する」ことを目指して全作品の翻訳を行なった。
第二次世界大戦後の福田恆存と木下順二の翻訳はいずれも、舞台で語られる新たな文体の創出を目指した。それぞれにシェイクスピア翻訳を通して日本語という「国語」の彫琢を図ったことは、両者が保守派論客と進歩的文化人として積極的に活動したことと無関係ではない。シェイクスピア翻訳は近代化や戦後復興という日本の国家的プロジェクトにしっかりと組み込まれていたのだ。
1970年代からの小田島雄志による全訳は、こうした政治性を脱しているように見えるが、それもまた大衆化という日本史の写し鏡と言える。東大教授が喫茶店で、ダジャレ満載の平明な日本語へとシェイクスピアを訳したこと自体が、エリート的な教養主義の解体と大衆文化の隆盛という時代の象徴だった。
さてこうした歴史的パースペクティブの中においたとき松岡和子のシェイクスピア全訳はどのように位置づけられるのか・・・と書いたところで、筆が止まる。このように武張った文章で、松岡さんの翻訳を語るのはどうもしっくりこないのだ。なぜだろう? 無造作に切った銀色のソバージュ・ヘアにポップなコム・デ・ギャルソンのファッションをまとい、いつも笑顔の松岡さんのイメージに合わないからだろうか?
いや、そうではない。松岡さんのシェイクスピア翻訳家としての視点が、一人一人の登場人物(あるいはそれを演じる役者)の目の高さに据えられていて、そのいわばロー・アングルから作り出された劇世界が、図式的な歴史化にはなじまない特徴を持っているからではないか。
具体的な台詞で考えてみよう。『リア王』第4幕第6場、リアが嵐の中を狂乱状態でさまよったあげくたどり着いたドーヴァー海峡でグロスターと出会う場面だ。原文は“We came crying hither.” 松岡さんはここを当初は「我々は泣きながらこの世にやってきた」と訳していた(傍点筆者)。これは従来の翻訳者たちの解釈を踏襲している。坪内は「人間は皆な号(な)きながら世界(こよ)へ出て来たんぢゃ」、小田島は「人間、泣きながらこの世にやってくる」と訳している。福田、木下の訳も基本的に同じ方向だ。
だが松岡さんは舞台の稽古に立ち会うなかで、「我々は泣きながらここにやってきた」へと訳を変えている(傍点筆者)。「この世」から「ここ」へ、わずかな違いのようだが、ここには決定的な差がある。従来の訳が、「人間」という人類の一般が「世界」で抱えざるを得ない不条理を表現していたのに対し、松岡さんの改訳はリアとグロスターという「二人の老人」が、追い詰められた果てに「この場所」で出会ったという、等身大の巡り合わせを表している。地位、財産を手放し、家族に裏切られ、一人は正気を失い、一人は両眼をえぐり取られ、もはや生きる支えをすべて無くした老人が二人舞台に立っている。そこで語られる言葉は、痛切な苦しみからしぼり出される個人の声だ。劇場の中心で、その一人の切実な声がまず響いてから、それがこの世の残酷さという抽象性を持つことに気がつくのであって、最初から哲学的な思索が語られるわけではない、というのが松岡さんの翻訳の基本姿勢だ。
松岡さんの人称代名詞へのこだわりも、登場人物(役者)の視点に立つことと関連している。ジュリエットがロミオに向ける目の高さにアングルを合わせたとき、ジュリエットの使う“thou” という人称代名詞には、恋する相手と対等な立場に立つ女性の意思が浮かび上がり、おのずと語尾から古い翻訳にあった「わ」や「わよ」のような女性特有の終助詞は消える。マクベス夫人の目の高さで夫を見るとき、“we” や“us” という人称代名詞は夫と一体化して権力へと突き進む「私たち」の意思の表明となる。「女性として初めて」という形容がしばしば松岡さんには付されるが、こうした訳語での新規性は松岡さん自身が女性であるということよりも、稽古場や劇場に通いつめながら翻訳をした、いわば「座付き翻訳者」としての成果と言えるのではないか。
ここで再び、大きく歴史を見てみよう。大衆劇場の役者兼作家だったシェイクスピアは、18世紀以降のイギリスの国力の高まりとともに国民作家となり、やがて世界的な文豪として神格化されていった。その世界的文豪の残した、鋭く深い人間への洞察力を有した文学作品をいかにして日本語で再構築するかが近代日本における翻訳史であった。だが立ち戻ってみれば、シェイクスピアは同じ劇団仲間の顔ぶれを見て登場人物を考え、上演機会にあわせて改変も行う劇場という現場にいる職人的な戯作者だった。その「座付き作家」シェイクスピアと同じ高さの視点に立つ「座付き翻訳者」として、全作品の読み直しをしたところに、松岡和子という翻訳者の歴史的意義はある。
前沢浩子
獨協大学外国語学部英語学科教授。著書にNHK カルチャーラジオ『生誕450 年シェークスピアと名優たち』(NHK 出版、2014)、訳書にスタンリー・ウェルズ『シェイクスピアとコーヒータイム』(三元社、2015)、ジョン・ネイスン『ニッポン放浪記-ジョン・ネイスン回想録』(岩波書店、2017)などがある。