enpaku 早稲田大学演劇博物館

冬木ひろみ

「Words, words, words.––松岡和子とシェイクスピア劇翻訳」

舞台で輝く松岡和子訳

冬木ひろみ

   坪内逍遙は日本初のシェイクスピアの全訳という偉業を成し遂げているが、逍遙の翻訳の大きな特徴は舞台を目指したものであったと言える。逍遙はシェイクスピアの翻訳は「わが国劇の向上に資するため」であったと記しているが、その方針としては「英文学者としてではなく、脚本作家として」なのだとしている(「跋に代えて」『新修シェークスピア全集』第29巻、p.8)。逍遙が翻訳と舞台を繋ごうとした意志はその後のシェイクスピアの翻訳者たちにも受け継がれてはいるが、日本で3人目の完訳者である松岡和子氏の翻訳は、これまでの翻訳者たちのものとは一線を画している。
   松岡氏の翻訳が異色であるのは、実際の舞台との関わりの強さにあると言える。松岡氏は、蜷川幸雄による演出の舞台のための翻訳を1998 年より引き受けるようになり、蜷川シェイクスピア・シリーズの欠かせない一員となって来られた。実際の上演には関わらないという翻訳者も多いなか、松岡氏はほとんどすべての稽古に立ち会うことを続けている。稽古における翻訳者の役割と言えば、演出家や俳優からの問いかけに対し解説をすることだと思われるが、松岡氏の場合はそれに留まらず、俳優が疑問に思った点を原文にあたって再考する。しかも翻訳の言葉が適切でないと判断した場合は即座に変更してゆく。例えば、蒼井優が『オセロー』で疑問に思った複数の「あなた」“my lord” という言葉について、原文のわずかなニュアンスの違いがあることに気づいた松岡氏は、翻訳を一箇所だけ「旦那様」に変えたという。その途端、オセローとのやりとりの齟齬が明瞭に舞台上に現れたとのことだ。松岡氏の翻訳が「生きた言葉」になっているのは、舞台の言葉としてシェイクスピアを訳すことへの強い意識があるからに違いない。
   もう一つ、松岡訳の大きな貢献としては、なぜこれまで英語圏の学者・演出家などが気づかなかったのかと思うほどの発見が多いことである。これもよく引かれる例だが、マクベスがダンカン王殺しを躊躇している時にマクベス夫人との対話で使われる“we” が二人の絆を示す重要な一言となっていることに気づいた松岡氏は、日本語では省かれることの多い主語をあえて訳出している。マクベス「もししくじったら、俺たちは? (If we should fail?) 」マクベス夫人「しくじる、私たちが? (We fail?)」(1幕7場)。殺人という行為ではあるが、ここでの二人はそれを夫婦の共同作業と考えているのである。英語としても単純な箇所こそ難しくまた問題をはらんでいることを恐ろしいほどにこの例は教えてくれる。
   これもたびたび指摘されることではあるが、松岡氏の翻訳の大きな特徴として、女性の登場人物の言葉遣いにも触れておきたい。これまでの翻訳者のほとんどが男性だったこともあるが、男性的な言葉、女性的な言葉という先入観念がシェイクスピアの人物たちのセリフの言い回しに影響を与えてきたのは否めない。それに気づいた松岡氏の翻訳では、ヒロインたちが「…ですわ/だわ」と言うことは滅多にない。これは現代のジェンダーフリーを意識したからではなく、シェイクスピアの原文がそうなっているからなのである。逆に言えば、これまでの翻訳者が実は原文にある女性像を歪めていたことにもなる。
   さらに、私が驚いたのは松岡氏の翻訳が進化(変化)していることである。初版がちくま文庫から出版された後、松岡氏が劇場で、あるいは書斎で何らかの発見をした場合、改訂版が出る際にその部分のセリフが修正されているのである。舞台の現場では、翻訳者の確認を取るなどしつつ、一部のセリフを変えてゆくことはあり得る。しかしながら、出版物を改訂時に細かい点まで確認して修正を重ねてゆくということをやっているシェイクスピアの翻訳本を私は寡聞にして知らない。つまり、松岡訳は変容し進化しているのである。例えば、ハムレットのよく知られる第4独白“To be, or not to be” は、初版では「生きてとどまるか、消えてなくなるか」であったが、その後の改定版では「生きてこうあるか、消えてなくなるか」となっている。これはのちに松岡氏本人から、状況と存在の両方を示せるということに加え、「こうあるか」は、消えて「なくなるか」とうまく対になるのだと伺った。見事な翻訳である。実際、シェイクスピアの言葉は意味と音(あるいはリズム)の両方を日本語として出すことは非常に難しいが、松岡氏は漠然としたbe 動詞のこの独白での意味と音の両面を生かした訳により、一つの答えを出したのだと思う。
   翻訳というものは、翻訳者の人となりそのものを表しているように私は以前から感じている。松岡氏に初めてお目にかかったのは数十年前のとある講演会だった。飾らないお人柄に加え、心にすっと入り込むような語り方だった。たちまちファンになった。その後も劇場で、あるいはお招きした講演会でお会いすると、こちらが見逃していたことも明確に捉えた鋭い解説をしてくださる。そうした感性の鋭さと、どんな意見も受け止めて翻訳に生かそうとする謙虚さ、テキストへの徹底的な読みから得られる発見が相俟って、松岡訳の一つ一つが完成されてゆく。そしてそれは今後も進化し続けるのだろう。松岡氏はある著書でこんなことも言っていらした。「逍遙訳だけは古びない」(『深読みシェイクスピア』p.138)。恐らく松岡訳も古くならない、と思う。なぜなら、現在につながるシェイクスピアの描く人間像を確と捉えているのだから。
  
冬木ひろみ
早稲田大学文学学術院 文学部英文学コース教授。主な著作に「シェイクスピアの視覚表象:『お気に召すまま』をめぐる一考察」(『英文学』所収、早稲田大学英文学会編、2020)、「規範としての英文学—シェイクスピアの翻訳をめぐって」(『近代人文学はいかに形成されたか』所収、冬木ひろみ、甚野尚久、河野貴美子他編、勉誠出版、2019)、「記憶と五感から見る『ハムレット』」(『甦るシェイクスピア−没後400 年記念論文集』所収、日本シェイクスピア協会編、研究社、2016)など。