enpaku 早稲田大学演劇博物館

Act 3

Words, words, words.―松岡和子とシェイクスピア劇翻訳

Act 3 Scene 1 日本におけるシェイクスピア

   Act 3 では、約150年の日本のシェイクスピア劇受容・翻訳史の中に松岡さんのシェイクスピア劇翻訳を位置付け、その魅力と意義を探ります。日本最初のシェイクスピア劇作品の翻訳は、1874年1月に英語雑誌 The Japan Punch に掲載されたポンチ絵に添えられたものだと言われています。侍姿で瞑想に耽るハムレットらしき人物が中央に描かれ、「アリマス アリマセン アレハナンデスカ」という翻訳がローマ字で書かれています。1909年、坪内逍遙が『沙翁傑作集』として『ハムレット』を出版、これが後の『沙翁全集』(1928)、『新修シェークスピヤ全集』(1935) に発展していきます。
日本初のシェイクスピア劇作品の翻訳完全上演は、1911年2月に帝国劇場で行われた後期文芸協会第一回公演『ハムレット』(坪内逍遙訳・指導)でした。この公演は興行的にも成功を収めたものの、逍遙が目指したのはシェイクスピア劇を通しての「国劇の創造」でした。日本人が演じる限りは「日本の味を出すべき」だという考えをこの舞台演出の基本にしており、逍遙のシェイクスピアは西洋近代演劇の舞台を忠実に移入しようとした新劇運動と一線を画すものでした。

(参考文献『新編シェイクスピア案内』、日本シェイクスピア協会[編]、2007)

Act 3 Scene 2 進化し続ける松岡訳

   戦後の新劇シェイクスピアでは、福田恆存訳・演出の文学座公演『ハムレット』(1955) が注目されました。芥川比呂志の好演もあり好評を博しましたが、「本場英国」の模倣としての新劇シェイクスピアに限界も見出されるようになります。1970 年代以降では、出口典雄のシェイクスピア・シアターが1975年から81年までの6年間でシェイクスピア全劇作品を上演しました。衣装もジーパンやT シャツなど普段着で、大きな舞台装置も使わずに渋谷のジァンジァンという小空間を舞台とし、従来のシェイクスピア劇のイメージを刷新しました。この上演に合わせて小田島雄志氏が全シェイクスピア劇を1 人で翻訳したことは画期的です。このような流れを経て、1990年代に松岡さんのシェイクスピア劇翻訳が登場し、故蜷川幸雄氏が初代芸術監督を務めたの国シェイクスピア・シリーズの翻訳も担当しています。その魅力と意義は数多くありますが、特筆すべきは、今を生きる観客や読者にとって自然な日本語であるということ、増刷の度にアップデートを続けていることだと言えるでしょう。Act 3 では『ロミオとジュリエット』のバルコニーシーンと『マクベス』のトゥモロウ・スピーチ(Tomorrow Speech)を具体例として取り上げながら、松岡訳の魅力と意義をご紹介します。

(参考文献『新編シェイクスピア案内』、日本シェイクスピア協会[編]、2007)