新演劇が隆盛に向かう頃、映画という新しいメディアが日本に輸入された。日本映画の製作はその後次第に増加していくが、このとき重要な役割を果たしたのが新派をはじめとする舞台関係者であった。なかでも新派俳優は、日本最初の劇映画に出演して以来数々の映画に参加し、明治末期には川上音二郎一座出身の藤沢浅二郎や静間小次郎、成美団出身の女形・木下吉之助のような幹部俳優が数々の映画で活躍した。初期の日本映画は舞台の伝統や慣習の強い影響下にあり、江戸期を描く「旧劇映画」と明治・大正期を描く「新派映画」に大別されていた。女性の役も女形によって演じられ、立花貞二郎や衣笠貞之助などの女形スターが人気を集めた。
舞台と映画の関わりでは、新派凋落の声が高まっていた大正中期に流行した「連鎖劇」も忘れてはならない。実演と映画を交互に組み合わせた連鎖劇は、関西の山崎長之輔ら、関東の井上正夫らによって一大ブームとなった。
大正末期になると従来の日本映画を改革する動きが盛り上がり、女形を排して女優を用い、欧米の映画のような映像技巧を活用する「映画劇」の製作が試みられた。初期の松竹蒲田では映画劇の様式で新派作品が次々と製作され、次第に大正・昭和モダニズムのもとでの明治以来の「新派悲劇」の再解釈も進んだ。昭和初期に映画がトーキー化したときには、台詞を声に出しながら演じる舞台俳優が注目を集め、初代水谷八重子も初期の複数のトーキー映画に主演した。新派と映画の交差はその後も現代にいたるまで続き、各時代に製作された新派作品はその折々の社会や時代を記録する鏡ともなっている。