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早稲田大学演劇博物館 イベントレポート

第85回逍遙祭「波乃久里子×喜多村緑郎 坪内逍遙を読む」レポート

 早稲田大学演劇博物館では、1936(昭和11)年以来、創設者である坪内逍遙の業績をしのぶ会として「逍遙祭」を開催してきた。第85回を数える今回は、当代の新派を支える波乃久里子さんと喜多村緑郎さんをお迎えし、坪内逍遙の「言葉」を朗読していただくという貴重な機会を得た。構成・演出は、劇団新派文芸部の齋藤雅文さん。

 幕が開く。演壇の前に、紋付き袴の喜多村緑郎さんが現れ、しばし聴衆を眺め渡したのち、おもむろに口をひらく。
 「閣下並びに諸君、此たび諸君の優渥なる御同情、御援助に依りまして、斯様に、多年の宿願を現実にすることを得ましたる私の衷心の悦びは容易に言舌を以て申し尽すことは出来ません」

喜多村緑郎さん

 1928(昭和3)年10月、演劇博物館開館式での坪内逍遙による挨拶の第一声である。すなわち聴衆が見守る壇上には、喜多村緑郎演じる坪内逍遙がその姿をあらわしている。身振り手振りを交えながら、緩急自在に朗々と語りつづける逍遙先生――否、緑郎さん。挨拶はしだいに熱を帯び、その言葉が放たれるにつれて、場内の空気が変わっていく。
 人びとは息を呑まれたようだった。ほとんど演劇博物館の開館式に居合わせたかのごとき感興をもよおした。時間にしておよそ20分弱。演劇博物館の使命と意義を訴える一言一言に会場の誰よりも胸を打たれたのは、ほかならぬ演劇博物館の館員たちだったかもしれない。
 開館当時は古稀であった逍遙に、緑郎さんの発した力強さ、若々しさはむろんなかったに違いないのだが、秘めたる意志と熱量はかくあるものであったかと想像させる、見事な一場であった。

左から後藤隆基(報告者)、波乃久里子さん、喜多村緑郎さん

 興奮冷めやらぬ聴衆は、しばしの休憩をはさんで第2部を待つ。
 坪内逍遙作「桐一葉」は、1894(明治27)年から翌年にかけて発表されたが、当時の劇壇には受け入れられなかった。1904(明治37)年3月、五代目中村芝翫(のち五代目歌右衛門)の淀君、三代目片岡我当(のち十一代目仁左衛門)の片桐市ノ正且元、八代目市川高麗蔵(のち七代目松本幸四郎)の木村長門守などで初演されて以降、五代目歌右衛門の当たり役となった。逍遙史劇の代表作のひとつだが、近年、上演の機会に恵まれず、報告者なぞは舞台を実見したことがない。活字でしかふれえなかった戯曲を「聴く」ことができるのは僥倖であった。

波乃久里子さん

 波乃久里子さんの淀君に、緑郎さんが大野修理ノ亮をはじめとする複数の登場人物を演じ分けて相対する。6幕16場という大部の戯曲から、第2幕第3場「淀君寝所密訴」、第3幕第2場「黒書院内評議」、第5幕第4場「淀君寝所珍柏横死」を抜粋し、約30分にまとめあげた(折々で報告者が解説めいたツナギを担当したのは、お耳汚しのご愛嬌とご容赦いただきたい)。

 「淀君は歌舞伎の女形が演じるもの」と久里子さんはおっしゃっていたが、女優による淀君が歌舞伎と異なる像を描きだしたのは間違いなく、大きな発見であったと感ずる。とはいえ、それも歌舞伎の素養と技芸を確と身体に有している久里子さんだからこそ実現可能だったのだろう。緑郎さんも、正栄尼のような老け役から公家風の秀頼、そして大野修理ノ亮を二の線の様式で語って淀君を受けとめ、芸域のひろさを発揮した。
 
 

左から児玉竜一(演劇博物館副館長)、波乃久里子さん、喜多村緑郎さん

 朗読が終わって、児玉竜一副館長による作品解説。坪内士行が「逍遙は1時間ほど語りつづけた」とも回想する開館の挨拶が、緑郎さんのおかげで実際にどれくらいの時間を要したかを確かめることができた、と述べたうえで、しかしそれを1時間にも感じさせるほどに逍遙の挨拶は熱がこもっていたのだろう、と指摘。また「桐一葉」について、とくに淀君は歌舞伎でもなかなか演じ手のいない難役であり、本来であれば当代の中村福助丈が歌右衛門の系譜を引く適役であったに違いないのだけれど……と述べながらも、久里子さんの淀君に賛を惜しまなかった。

児玉竜一(演劇博物館副館長) 波乃久里子さん 喜多村緑郎さん

 逍遙には「大いに笑ふ淀君」という作品もありますから――と水を向ける児玉副館長に、久里子さんは「女形は呵々大笑できるけれど、女優がそれをやるのは難しい」と、遠慮がちに、さりげなく応じる。それでも、久里子さんと緑郎さんによる声の共演は、逍遙戯曲の今日における上演可能性を感じさせる貴重な時間となった。

左から後藤隆基(報告者)、児玉竜一(演劇博物館副館長)、波乃久里子さん、喜多村緑郎さん、齋藤雅文さん(構成・演出)

【執筆者】
後藤隆基(ごとう・りゅうき)

立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教。立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。早稲田大学坪内博士記念演劇博物館助教などを経て現職。専門は近現代日本演劇・文学・文化。著書に『高安月郊研究――明治期京阪演劇の革新者』、編著に『ロスト・イン・パンデミック――失われた演劇と新たな表現と地平』、『小劇場演劇とは何か』ほか。