江戸時代には、「浄瑠璃操り」「操芝居」などと呼ばれた人形浄瑠璃は、近代になって「文楽」との呼称が定着する。「文楽」とは、江戸時代の淡路出身の劇場経営者・初代植村文楽(一七五一~一八一〇)の名に由来する。初代文楽が寛政期に大坂の神津で浄瑠璃の席をひらき、その後文化八(一八一一)年に二代目文楽(一七八四~一八一九)がはじめた博労町稲荷境内の芝居などを経て、文楽の一族は文楽翁と呼ばれた四代目文楽(一八一三~一八八七)の時、明治五(一八七二)年開業の松島の芝居にて劇場名に「文楽」を冠した。明治以後も幾つかの座は興行していたが、後にはこの文楽座のみが人形浄瑠璃を興行する唯一の劇場となり、「文楽」が一般的に人形浄瑠璃の代名詞となるに至る。そして昭和に入って以後、本拠地・大阪の町を焼いた世界大戦を生き延びた文楽座は、昭和から平成にかけても幾多の波乱と困難を乗り越えて現在まで演劇としての舞台生命を保ってきたのである。
本章では、昭和から平成にかけての文楽現代史を、近松半二作品が描かれた館蔵品ポスターとともにご案内する。