小説やエッセイ等の執筆と並行して、翻訳が村上にとって極めて重要な仕事であり続けてきたことはよく知られている。実際、スコット・フィッツジェラルドの『マイ・ロスト・シティー』の翻訳以来、村上は驚異的な数の小説を日本語に訳してきた。それらの多くはアメリカの小説であるが、実は映画化された作品も数多い。
フィッツジェラルドの小説はまさにそのひとつであり、『グレート・ギャツビー』だけでも四回映画化されている。レイモンド・チャンドラーに関しても、最初の長編『大いなる眠り』が二回映画化、そのほかの小説もいくつか翻案されている。レイモンド・カーヴァーについては、複数の短編小説を組み合わせてつくられたロバート・アルトマンの『ショート・カッツ』、『愛について語るときに我々の語ること』が劇中劇として登場しているアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』などの作品がある。トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』ならば、オードリー・ヘップバーン主演の映画版を原作より先に知る人も少なくないだろう。
翻訳(translation)と翻案(adaptation)。この二つの異なる実践は、実は共通した特徴を持つ。ある特定の言語を別の言語に移し替えること。英語の小説を日本語へ翻訳するように、翻訳において小説は文字言語から映像言語へと移し替えられる。その二つの実践を並べることで、言語とは何か、それを移し替えるとはどのような営みなのかについて、新たな理解を深めることが本章の狙いである。村上が翻訳を手がけた小説とその映画化作品を中心に据えつつ、彼がさまざまな機会に言及してきた小説や映画も取り上げた。ここでは、アメリカ文学と映画の交流を広い視野から見つめていただきたい。そのどちらも村上を深く魅了してきたのだから。