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イベントレポート

早稲田大学演劇博物館 イベントレポート

2018年度シェイクスピア祭演劇講座 シェイクスピア劇の翻訳 ― ページからステージへ

日時:2018年5月16日(水)18:30-(17:30 開場)
会場:早稲田大学小野記念講堂
講師:松岡和子(翻訳家・演劇評論家)

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2018年度のシェイクスピア祭演劇講座には、演劇博物館開館90周年を記念して松岡和子先生にご登壇いただきました。テーマは「シェイクスピア劇の翻訳 ― ページからステージへ」。松岡先生は、『マクベス』を中心としながら、参加された舞台の映像を交えつつ、これまでどのようにシェイクスピア劇を翻訳されてきたのか、その秘訣をお話しくださいました。当日、会場には、学生、演劇人、研究者など、非常に多くの方が集まり、座席は満席で大盛況でした。

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最初に、松岡先生は、シェイクスピアの台詞の特徴についてご説明くださいました。シェイクスピア劇の台詞は「意味」「イメージ」「音韻」の三層から成っており、なおかつその意味の層とイメージの層の各々が多層で構成されています。したがって、翻訳をする時にその全ての層を日本語に移したいという気持ちはあるけれども、日本語の性質上、その全ての層を反映させた訳を構築することは困難なので取捨選択を迫られます。訳者によって何を選び、何を諦めるかが異なる、その結果、同じシェイクスピア劇でありながら、これほどまでに数多くの日本語の翻訳が存在しているのだと教えてくださいました。
続いて、松岡先生は、『マクベス』の翻訳の話に移られました。シェイクスピア劇の翻訳に着手されたばかりの頃、先生は、方針を決めて翻訳することがあったそうです。例えば、魔女の台詞「Fair is foul, and foul is fair」(第1幕第1場)について、「fair」と「foul」が、この劇のキーワードであり、様々な文脈において登場することから、先生は、fairとfoulがどこで出てこようが、それぞれ「いい」と「ひどい」と訳すことにし、冒頭の魔女の台詞も「いいはひどい、ひどいはいい」という訳を当てられました。1996年のデヴィッド・ルヴォー演出の「マクベス」では、その訳が使用されています。ところが、実際に俳優がその台詞を言っているのを耳にして、もっとよい音があるのではないかと反省し、現在の「きれいは汚い、汚いはきれい」に変更されたそうです。一貫性を優先し、「fair」を「いい」と、「foul」を「ひどい」と訳すことにこだわることも可能でしょう。しかし、先生は、それは「翻訳者の自己満足にすぎない」と力説されました。

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また、魔女の台詞「When the battle’s lost and won」(第1幕第1場)についても触れました。最初、先生は、この台詞を「戦い勝って負けたとき」と訳しました。しかし、1997年に、一緒に仕事をしたルーマニアの演出家アレクサンドル・ダリエ氏の稽古場での指摘にはっとしました。第1幕第2場におけるロスの戦況報告のところでダリエ氏は「ほらね、魔女の言ったとおり、戦いに負けて勝ったんだよ」と言いました。それを聞いた先生は、たいへん驚いたそうです。つまり、魔女の台詞が、その後に登場する登場人物たちの行動に影響を及ぼしているのだから、通常「勝ち負け」「勝敗」というように、日本語では「勝つ」を先に置きたくなるけれども、原文通りに「負ける」「勝つ」の順番で訳さなければならないことに気づきました。そのとき、先生は、日本語の思考の流れや固定観念が翻訳に影響を及ぼすことを知り、それ以来、気をつけながら翻訳することを心がけていらっしゃるそうです。

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その後、『マクベス』の「To-morrow Speech」(第5幕第5場)の検討を行いました。シェイクスピア劇の台詞のほとんどは韻文(弱強五歩格)で書かれており、先生は、まず「To-morrow Speech」の構造、その中でもとくに強拍と弱拍の解説をしてくださいました。そして、はじめて「To-morrow」を翻訳した時に、先生は、テンポのよさから「明日(あす)」と訳したことを教えてくださいました。しかし、2000年に演出家グレゴリー・ドーラン演出の『マクベス』の舞台を観劇し、アントニー・シャー氏が演じるマクベスがその台詞を「明日に希望はない」という感じで重たく語るのを目撃して、この台詞は調子よく訳してはいけないということを悟られたそうです。そこで、先生は、「明日」に「あした」とルビを振るよう変更しました。その上で、現在は、「To-morrow, and to-morrow and to-morrow」の中の「and」が強拍であることをより意識し、「また」という言葉を付け加えて、「明日(あした)も、また明日も、また明日も」と訳されているとのことです。
さらに、松岡先生は、同スピーチの中の「Out, out, brief candle!」の訳の話もしてくださいました。先生は、この台詞を「消えろ、消えろ、束の間の灯火(ともしび)!」と訳しています。実は、これは坪内逍遙先生の翻訳に基づくもので、松岡先生は、逍遙先生が完璧な訳を作り上げてしまったので、私も活用させていただいているとお話しくださいました。こうして先人たちの偉業を引き継いでいくことについて、「これこそが翻訳の文化だよね」と小田島雄志先生がおっしゃったそうです。

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この他にも、特定の公演のみで使用した訳のお話や、魔女は一体誰なのかという議論もしてくださいました。また、能楽堂で上演された河内大和氏演出の「マクベス」の舞台や、緑の傘で覆われた長塚圭史氏の舞台の映像なども視聴しました。
このように、松岡先生のシェイクスピア劇の翻訳は、一度、訳したからそれで完成という訳ではなく、演出家や俳優たちとともに、そして舞台ごとに常に進化し続けていることがわかります。実際、出版されている先生のシェイクスピア劇の脚本は、版が変わるごとに修正が入っているそうです。したがって、今後も、松岡先生の翻訳がどのように進化し、日本のシェイクスピア演劇を豊かにしていくのかが、非常に楽しみです。

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左から、岡室美奈子館長、松岡和子先生、冬木ひろみ教授、飛田勘文助教

 講師

松岡和子(まつおか・かずこ)
翻訳家、演劇評論家。東京大学大学院修士課程修了。1993年以来、シェイクスピアの全戯曲の翻訳に取り組み、2016年に亡くなった演出家・蜷川幸雄氏が芸術監督を務めた彩の国さいたま芸術劇場の彩の国シェイクスピア・シリーズで翻訳を 担当し、企画委員も務める。主な著書は『深読みシェイクスピア』『快読シェイクスピア』(いずれも新潮文庫)等。翻訳も多数。シェイクスピアの訳書は、ちくま文庫からシェイクスピア全集として出版されている。 既訳は『ハムレット』など33本。日本シェイクスピア協会会員、国際演劇評論家協会会員。